コロナ関連のネット記事のコメントを見ていて思ったこと

「コロナの感染拡大は結局個人のせいではないだろうか?」

究極的に言えばその通りだと思う。だがしかしいったい何が感染拡大を助長しているのか、というのはよくわからないものであると思う。実際、毎日買い物に行くのと、感染対策を万全にした状態でライブを見に行くのとどちらが危険かと問えば、実際の所はよくわからないだろう。(もちろんなんとなく前者、後者の方が危険であるという意見は出てくるだろうが)

 そうなってくるとどこまでの行為をやるべきでないか?といった部分に関してはどうしても個人の考えに委ねられる部分が多いと思う。だがそうなると、神経質な人は多少大ざっぱな人の行為に対して怒りがたまり、逆に大雑把な人は自分の行動が批判されるいわれはないのに批判されているとストレスをためてしまうだろう。要は何をこのコロナ禍でしてはならないのか明確な線引きをしない限り何らかの諍いがネット上で起きたてしまう。

 現在の日本でも確かにこのコロナ禍で行ってはならない行為が多く存在するが、多くの人がそれを十分な規制ととらえられていないのではないだろうか?故に、メディアは「いまだにこんな感染拡大に広がる行為をしている人がいる」といったように、多くの人の怒りをあおる記事を書く。

 無論規制を敷くことは非常に困難である。だがしかしこんな多くの人が不満しか持たない緩やかな規制しかかけず、その緩やかな規制で、真綿で首を絞めるかのような経済活動の規制をするといった、どっちつかず、経済もコロナ感染状況も好転しないであろう状況を維持するくらいなら、大部分が納得しやすい部分にもう一度規制の線引きをしてもよいのではないだろうか?

 僕は結局このコロナ禍でのみんなの不満が発生している理由は、感染拡大になってしまうような行動が容認されている理由は、批判を恐れて緩い規制しか出していない、曖昧な線引きしかしていないからではないだろうか?

仕事を一緒にしたい人

仕事を一緒にしたい人、仕事を頼みたい人は、その仕事を楽しんでできる人だと思う。

 

僕としても、なんとなくその仕事をこなすスキルを持っている人がやってくれるよりも、その仕事が好きでやってくれる人にやってもらった方がやはり安心できると思う。

 

自分の食べたいもの、おいしいものを追求している料理人の料理の方が、料理をするスキルを持っているが、特にどういった料理を作りたいわけでもないといった料理人の料理よりも食べたいと思うのとなに課似ているように思う。

 

 おそらくその安心感の出どころは、そういった自分の作ろうとしているもの、大きな理念、信念のようなものを本心から持っている人は、下手な仕事をしない、その人自身が作ろうとしてくれているから、適当な仕事はしないだろうという期待があるのではないだろうか?また、専門的な仕事を頼むにあたっては、そういった人の方が、「自分の注文意図等をうまくくみ取ってくれたうえで、自分の想像を超えるものを作ってくれるのではないか」という期待ができるからではないだろうか?

 

 もちろん技術が必要なのは言うまでもないが、仕事を任すにあたっての安心感、期待感を抱かしてくれるのは、その人自身やその人の作品等が伝えてくれるその人の持つ信念や理念といったものではないのだろうか?

どうしたら満足できるか

 本当にお腹がすいている人に対して「何が食べたい?」と聞けば、おそらく「なんでもいいから食べさせろ」となると思う。

 

 だがそういった人もある程度空腹が満たされると、「もっとこういったものが食べたい」といったようにもっと詳細に自分の欲するものが見つかっていくと思う。

 

 これは食欲に限った話ではないと思う。睡眠欲に関してもまったく寝ていない状況、徹夜明けのような状況では「とにかく寝たい」という思いしかないだろうが、そこまで強力な眠気に襲われていなければ、「より質の良い眠りを味わいたい」という気持ちが生まれるだろうし、他の欲に感じてもそうだと思う。だからこそ人の良くという物は際限がないといわれるのだと思う。

 

 だがしかし僕は、欲が際限なく大きくなっていくわけではないと思う。欲が大きくなっていくのではなく、人が持っているもともと大きな、そして具遺体的な形を持たない欲求が、少しずついろんな体験や、その欲を満たしてより得られた理性的な視線によって分析されていくことでより明確な形が浮かんでくるのではないからではないだろうかと思う。つまり、何をすれば本当に自らの欲望が満たされるのかが分かっていくことで、より良い欲望の満たす方法が変わることが、が外面的に見れば欲が大きくなっているように見えたり、別ベクトルの欲望を持つように見えているだけなのではないだろうか?

 

 より良い欲望の充足は個人だけでは完成しなくなる。より良い食事をとるには様々な産地の食材を集め、素晴らしい技術でそれらを調理する必要がある。睡眠に関しても最初は個人が寝られさえいればよい、つまり自分の身一つで満たすことの出来る欲であるが、これは次第により良い環境を整えることや、より良いコンディションを作る必要が出てくる。つまり欲が大きくなればなるほど人はその充足のために他者との協力が不可欠になるのだろう。

 

 これは逆に自分の中でどのようにしたらより良い欲望の充足ができるかを知らないと他者と協力するメリットが見えてこないということではないだろうか?

このことは、ただその時々に発生した食欲を満たすために狩猟をしていた昔の人たちが、より大きな「安定して食事をしたい」という欲を持ったことで、その欲を満たすために安定した狩猟や耕作のために共同生活を始めたといったように実際の歴史が証明していると思う。

 

 もちろん人が共同生活を始めたのは食欲だけではないだろう。たくさんの人が集まることで安全を手に入れたい、繁殖しやすい…等様々な理由があるだろう。だがしかしそれらの原因の全ては案外簡単な欲に行き着くのではないかと思う「いっぱいご飯が食べたい」「安心してよい眠りをしたい」「ケガをしたくない」「子供を作りたい」といった簡単な欲が結局そこに行き着くのだと思う。そしてこのすべての人の行動原理は簡単な欲に行き着くというのは、のちの世の人々の行動においても言えるのではないだろうか?好奇心を満たそうと奔走していた結果世紀の発見が見つかる、より自分の言いたいことをうまく伝えたいと奔走していたら芸術ができる、自分の不便を解消しようと努力していたら発明が生まれる…こんなもんではないだろうか?

 

 だからこそ、「大きな夢を持てない」となったら、とりあえず自分の欲を満たしてみて、そのうえでさらに何を望むのかを考えてみるとよいのではないか?

ジャンクフードが好きだったけど

 僕は大学生までずっと実家暮らしをしていたんですが、家を出るまでとにかく「コッテリした物」とか「油っぽいもの」要はジャンクな食べ物が大好きでした。

 

 じゃあ一人暮らしを始めてそういったものばかり食べていたかと言えばそうではありません。もちろん最初はそういったものを心行くまで食べてやろうと思ったのですが、ある程度食べ続けていると、なんとなく「なんかこれが食べたいわけではない…」と思うようになっていきました。

 

 別に胃がもたれるようになってきたわけでも胸やけがするようになったわけでもないんです。ただ単にそういった油物とかを食べても「満足できない」と感じるようになったわけです。

 

 たぶん僕にとってはとにかくきつい味のものとかを食べて満腹になって、漫然とした満足感を得たかっただけなんだ思うんです。まぁよく言うストレス性の食欲といったやつです。

 

 ただ実家にいたころはそういった油物とかを食べ続けるわけにも馬鹿食いするわけにもいかなかったから、多分体が、そういったものを食べれば何か満足感が得られるんじゃないかと思い続けていたのでしょう。そう思い続けていたからこそ、自分が精神的な満足感が欲しいんじゃなくてお腹がすいているとばかり思っていたのでしょう。

 

 そういった精神的な欲望を満たそうとする気持ちが大きすぎて理性のタガを外してしまっていたからこそ、「油物を食べる」といったことが精神的満足につながらないという簡単なことにすら気付けていなかったんでしょう。

 

 だからこそというか、いったん自分のやりたいことを実際にやってみて、本当に満足できているかをしっかり観察して、満足いっていなければ「何を求めているのかな」ということを考える、満足いっていれば、その行為のどこに特に満足が行ってのかについて考えて、「より良い自分の欲望の満たし方は何かな?」ということを考えると、精神的な満足のために「ジャンクなものを馬鹿食いする」といった間違いにたどり着くことも、その間違えたやり方で体を壊すといった失敗をすることもなくなるのではないのかなと思います。

いきなり理想を求めるか、最低限を考えるか

物を作る上では、「最低限こういったものは作ろう」という物と、「できたらつけてみたい」といった追加要素の二つを考えるのが大切ではないだろうか。

 

 当然の事ながら、いきなりあまりにも理想に近いものを作ろうとすると、その理想の姿のようなものの中から、どの部分が必要不可欠な部分か?ということや理想ともいえる形を達成するためにどんな技術が必要か?という様々なことに気を向ける必要がある。要はやらなくてはいけないことがたくさん見つかってしんどくなると思う。それこそ壁のように感じるだろう。目標に達するまでに攻略しなくてはいけないポイントがたくさんある上に、どこからでも登れるような気がするから、「ここがうまくいかなくなったから、ちょっとあっちにも手を付けてみよう」といったようになり、結果として微妙なものが出来上がることが多いように思う。

 また、理想の形などは、やっていくうちにどんどん変わっていく。「もっとこういう物が欲しい」「こういう形の方が良いのでは?」といった具合に理想はどんどん違う方向へも、もっと上の方向へも移動していく。だからこそ、先ほどの例えを用いると実際のものづくりにおいては、壁を乗り越えたと思ったらさらなる壁が出てきたりするというわけだ。

 

 だからこそ、最低限のものは何かということを考えて、そこに追加要素を追加していき、どんどん理想の姿を目指すという方が良いのではないだろうか。このやり方は先ほどのやり方を壁と例えるなら、会談のようなものといえるだろう。会談だからこそ、次に上るべき段は一つで済むし、何よりその場その場で新しい段を追加したり戻ったりがしやすい。

 だがしかし、このやり方に置いても最終的なある程度の形というのは決めておくべきであろう。これが無くては無駄な段を突き上げたりする手間が増えるからだ。実際に物を作っているときはハイになって「これを付けたらどうか」といった案が次から次へと出てくるが、それは全体からの正確な判断に基づかない場合が多い。もちろんそういった案をないがしろにしてはいけないが、あくまでも実現を急ぐのでなく、ノートに記しておくくらいで最終的にまた判断すればよいだろう。

 

 物を作るときには「最終的に何を作るべきか」「最低限必要な骨組み的な要素はどれか」ということと、理想の形は常に変わるものだということを意識して動くべきではないかなと、最近新しくものを作り出して思った。

久しぶりにジャンプ作品を見てかっこいいなと思ったポイント

ジャンプのバトル系の主人公たちは、その理想にたどり着くための狂っているともいえるその姿勢がかっこよいと思う。

 

 ワンピースのルフィやヒロアカのデク島のキャラクターたちは全員夢がある。前者は「海賊王」後者は「素晴らしいヒーロー」といったように壮大な夢を持っている。そして共通して、その夢のために向かって全力で行動している。そしてそのための行動というのはときに非常に非合理的であることが多い。

 

 非合理な行動、仲間を引き連れて死地に飛び込んだり、体を壊す攻撃を何度も行ったりというのは普通の人は行わない。彼らはそういう意味で狂っている。だがしかし普通にくるっているだけではないのだと思う。普通そんな非合理的な行動をとる人間は嫌われる。人は理解できない行動をとる人に近寄ろうとしない。それは社会の輪を乱すおそれがあり、その予測不能な行動に巻き込まれて自分も被害にあうかもしれないからだ。

 

 だが先に挙げた主人公たちはそんな行動をとっても人に好かれる。それは物語の中だけの描写ではなく多くの読者に好かれているという点でそうであろう。僕が思うに彼らの一見不合理に見える行動たちは、彼らの持っている壮大な夢をかなえるという視点から見て合理的だからだと思う。彼らはその壮大すぎる夢のために無理をする。一見不合理ともいえる行動をとってケガする、下手したら命を失う危険があってもその夢を叶えるために行動する。

 

 そしてその滅茶苦茶ともいえる、強く自分の夢に突き動かされる行動は多くの読者たちに夢に向かって突き進む姿勢のカッコよさを伝え、同じく夢に向かう気力を沸かせるように見える。

 

 もちろん彼らのように夢のために己の命をも顧みず走り続けられる人はそうそういない。だが、そういった主人公たちをかっこよいと思える、憧れるというのは、そういった夢に向かってがむしゃらに突き進みたい、それほどまでに夢中になれる夢が自分にもほしいからではないのかと僕は思う。

直球でない物言いが有効であるのは何故か

うろ覚えだが最近見た記事にこんな言葉があった。「私は”S”が嫌いだ。だがしかしSを含む数多くの単語が嫌いなわけではない。“Parents“という単語が嫌いなのだ。わたしにとっての親はParentだから。ワードの機能がParentという単語にはスペルチェックを表示するが、私にとってはParentsではなくParentなのだ」たしかこんな趣旨の言葉であったと思う。

 両親がいないことの苦しみを表す表現はいくらでもあるだろう。「親子参観には父(母)司会なかった。」「家族写真には親は1人だけしかいない」等いくらでも言い方はある。しかし「片親である」ということを直球に示すわけではない「Parentをみとめない、必ずこの単語の後に着けねばならない“s”が嫌いである」という表現の方がこの文の作者にとって片親であることの苦しみや悲しみといったものが伝わりやすいように思う。

 

 普通の我々にとってParents という単語に“s”がついていることについてここまで注目することはない。ましてやそこに感情を何かしら出すこともない。だからこそ、そんなありふれた単語の中にある「親は複数いるものだ」という考えに反応し、感情をだしてしまう作者は、心のどこかで常に片親であることを意識してしまっているのだということが私たちには分かる、想像してしまう。

 この作者は言葉を尽くそうと思えばどれ程にも長ったらしく話せてしまう「片親であることの苦しみ」を、「Parentsの“s”が嫌いだ」という一言でみんなに理解させた。この作者は普通の人なら得ることの出来ない彼女独特の視点をみんなと共有することでその視点の出どころである「片親であることの苦しみの感情」を共有させたともいえると思う。

 

 優れたスピーチなんかはこういった話者だけが持つ独特な視線を共有させ、聴き手にその視線を持った理由を考察、推察させることで、その理由、根拠となった感情が生まれたストーリーを共有させることができるのだろう。

 確かにこういった者の言い方は有効であるが、直球的な伝え方ではない。だからこそ、こういった類のスピーチなんかを変な形で真似した人がわけのわからない話から始め、結局何が言いたいのかわからないといったことが多々あるように思う。

 そしてそういう人の語る独特な視線を持ったエピソードというのは、たいていが独特でも何でもなく、なんでそんな視点を持ったのかというところに興味すら抱かれない場合が多いように思う。

 優れたスピーチの独特な視点に興味が引かれるのは、ただ突飛なだけでなく、その視点にたどり着くにはおそらく強力な思いや信念というのがないと至れないからではないだろうか?そして、そういった思いや信念があるからこそ、そういう物を持てていない人は、そういった信念ある人に自分を重ね、自分も信念あるように振舞いたいと思うからこそ、より話に引き込まれるのではないか。