すきなモノ、夢中になれるものを探したい

先日何もする気が起きなくなった。Youtubeを見ていても次に見ようとする動画は決まれどもそれがめちゃくちゃ見たい!内容が気になる!といったワクワクは生じない。面白いと言われているスマホゲームをやってみても勧めようとはするが、どこか楽しくない、漠然とした物足りなさを感じていた。その時、成功こそしていないが音楽で食べていこうとしている友人と話をした。その友人は確かに娯楽をする金銭余裕が全くない状況だが音楽を作るのが楽しくて仕方が内容だし、(褒められた話ではないが)バイト中どんな音楽を作ろうか考えているだけで楽しいのだという。

 なんでそんなに音楽に没頭できるのか?そして彼にとっての音楽に相当するものが自分の中には果たしてあるのだろうか?と言うことを考え、その友人と話した内容をここに書こうと思う。

 

 あなたの好きなことは何ですか?と問うとたいていの人は何かしらの反応があるだろう。好きなことが見当たらない人というのはなかなかいないと思う。だが、ここで、「そのあなたの好きなもののことをあなたはずっと考えていますか?」とさらに問うと答えに詰まる人は多いと思います。

 

 ホームレスから有名実業家にまで上り詰めたクリス・ガードナーさんへの取材が行われている本を読むとそこには、電車の中を見回すと定職を持って幸せなはずの人たちはどこか幸せでないかのように目の輝きを失わせているのにもかかわらず、何故クリスさんがホームレスの時はそれよりも張りのある生活を送れていたのかという質問に対し、彼は

「大好きなこと、どうしてもやりたいことを見つけるのが、成功の秘訣です。そうすれば、ああまた1日それができるのだと太陽が昇るのが待ち遠しくなる」 との回答がありました。

 

 このことから「あなたが好きだと思っているものは、あなたが一日中楽しく考えてやまないものですか?」という最初にした問いかけの重要性が分かるであろう。そう、本当の意味で楽しい、夢中になれるものというのは一日を素晴らしいものにしてくれる。それどころか人生を豊かにしてくれるものであると考えることができるであろう。

 だがしかし最初に言ったようにこの様な本当に好きなものというのは見つからない人がやはり多いであろう。ではどのように見つけていけばよいのだろうか?

 

 これに関しては正直まだ明確な答えを私自身見つけられていない。(実際自分が満足のいくものは題名通りいまだ見つかっていない)しかし実際にそういった類の好きなものを持っている人たちと話しているとなんとなく推測することは出来る。

 「おそらく見つけるために大切なのは「喪失感」や「飢え」なのではないだろうか?」と私は思う。これはどういうことかというと、自分が本当に心躍るものという物は人間どこかで無意識に求めるものである。それが先に挙げた「飢え」やどうしても夢中になれるものがないという「喪失感」です。これをではどのようにすればよいかというところですが、これに対しての答えは、その「飢え」の正体を正確につかむということです。

 少し例を挙げて考えてみましょう。あなたの体はたんぱく質が足りていないとします。すると体はそれを認識して体にそのたんぱく質不足(飢え)を補うよう命令を出しますが当然体はそんなもの感じ取れるわけありません。せいぜい何か食べたいと漠然に思うのが関の山でしょう。こうなった時、単なる「飢え」を満たそうとして米など炭水化物ばかり取っていても当然たんぱく質不足が解消されるわけはないので(確かに米には多少のたんぱく質が含まれてはいるが大した量ではない)その上は満たされることなく、米の消化という処理すべき対象がなくなればおそらくまた漠然とした満たされなさを感じるでしょう。その時に、「あんなに食べたのにお腹がすいているのは気のせいだ」と無理やり納得するのではなく、何が食べたかったのかというのを分析していろんな食事に手を出してみましょう。おそらく不足している栄養素のある物をとると体がその上は満たされたとして「おいしさ」のような報酬をその不足を補った対価として与えてくれるでしょう。

 このことを話の本題に戻して考えると、どこか満足できない精神的な「飢え」を満たすにはただその「飢え」を紛らわさせるような行為、先ほどの例えで言えば米を食べる、のような行為を行った後、本当に体が満足できているのか、本当に心が躍ったのか?ということを自分自身に問いかけてみましょう。本当に満足できたのならば充足感のような精神的な満足が、そうでなければ何となく漠然とした虚しさがあるでしょう。虚しさとまでいかなくても対して心が躍らなかった。明日もした、といった感情が湧かないのならそれはあなたにとって飢えを満たしてくれるものではないのでしょう。

 

 このようにして何となく心躍る、満足のいくものを手にしたとしてもそれだけで満足してはいけません。もっと深堀をする必要があると思います。先ほどの例に戻りましょう。体がたんぱく質不足であれば当然肉を食べれば満足するでしょう。しかし、そこであなたが「なぜ飢えていたのか」ということを深堀せず、「あぁ肉が食べたかったんだな」というので終わるとおそらく次に来る他の栄養不足からくる上には対応できないでしょうし、体はもっと複雑に、たんぱく質は欲しいけどこれ以上油は欲しくないといった要求を出してくるものです。それに対応できない。それに対応するには、今日食べた肉にはどのような栄養素が入っているか?そして対木に飢えが来た時に同じように食べても満たされないなら、前回食べた肉よりこの栄養多い別のものを食べようなどとして調節してやることで、より自分の「飢え」への理解が進み、この様な「飢え」方をしているときにはこのようなものを摂取すればよいということが分かってくる。

 

 このように、その心が躍った行動のどの部分に心が特に踊ったのか(なんで飢えが満たされたのか)という部分に注目する必要があります。そうしておかないと同じ行為を繰り返していった結果最初は心を躍らせていたものが面白くなくなってくるということが発生した時に、その対処ができなくなってしまう。また一から何か心躍るものを探す必要が出てくるといった非常に無駄なことが発生してしまいます。

 

 このように書くと非常に簡単なことに思えますが、実際に飢えと戦うのは大変で、逃げたくなることも多いです。実際、例えの話で言うと、なんとなく満たされることは、この世に五万とあります。また、その飢えているという感覚そのものを麻痺させてしまうようなもの(酒など)がたくさんあります。ですが、今井落ち度後のより大きな幸せのために自分自身の「飢え」と向き合ってみませんか?この特に一人きりで自分に向かい合いやすい自粛下の中で。