どうしたら満足できるか

 本当にお腹がすいている人に対して「何が食べたい?」と聞けば、おそらく「なんでもいいから食べさせろ」となると思う。

 

 だがそういった人もある程度空腹が満たされると、「もっとこういったものが食べたい」といったようにもっと詳細に自分の欲するものが見つかっていくと思う。

 

 これは食欲に限った話ではないと思う。睡眠欲に関してもまったく寝ていない状況、徹夜明けのような状況では「とにかく寝たい」という思いしかないだろうが、そこまで強力な眠気に襲われていなければ、「より質の良い眠りを味わいたい」という気持ちが生まれるだろうし、他の欲に感じてもそうだと思う。だからこそ人の良くという物は際限がないといわれるのだと思う。

 

 だがしかし僕は、欲が際限なく大きくなっていくわけではないと思う。欲が大きくなっていくのではなく、人が持っているもともと大きな、そして具遺体的な形を持たない欲求が、少しずついろんな体験や、その欲を満たしてより得られた理性的な視線によって分析されていくことでより明確な形が浮かんでくるのではないからではないだろうかと思う。つまり、何をすれば本当に自らの欲望が満たされるのかが分かっていくことで、より良い欲望の満たす方法が変わることが、が外面的に見れば欲が大きくなっているように見えたり、別ベクトルの欲望を持つように見えているだけなのではないだろうか?

 

 より良い欲望の充足は個人だけでは完成しなくなる。より良い食事をとるには様々な産地の食材を集め、素晴らしい技術でそれらを調理する必要がある。睡眠に関しても最初は個人が寝られさえいればよい、つまり自分の身一つで満たすことの出来る欲であるが、これは次第により良い環境を整えることや、より良いコンディションを作る必要が出てくる。つまり欲が大きくなればなるほど人はその充足のために他者との協力が不可欠になるのだろう。

 

 これは逆に自分の中でどのようにしたらより良い欲望の充足ができるかを知らないと他者と協力するメリットが見えてこないということではないだろうか?

このことは、ただその時々に発生した食欲を満たすために狩猟をしていた昔の人たちが、より大きな「安定して食事をしたい」という欲を持ったことで、その欲を満たすために安定した狩猟や耕作のために共同生活を始めたといったように実際の歴史が証明していると思う。

 

 もちろん人が共同生活を始めたのは食欲だけではないだろう。たくさんの人が集まることで安全を手に入れたい、繁殖しやすい…等様々な理由があるだろう。だがしかしそれらの原因の全ては案外簡単な欲に行き着くのではないかと思う「いっぱいご飯が食べたい」「安心してよい眠りをしたい」「ケガをしたくない」「子供を作りたい」といった簡単な欲が結局そこに行き着くのだと思う。そしてこのすべての人の行動原理は簡単な欲に行き着くというのは、のちの世の人々の行動においても言えるのではないだろうか?好奇心を満たそうと奔走していた結果世紀の発見が見つかる、より自分の言いたいことをうまく伝えたいと奔走していたら芸術ができる、自分の不便を解消しようと努力していたら発明が生まれる…こんなもんではないだろうか?

 

 だからこそ、「大きな夢を持てない」となったら、とりあえず自分の欲を満たしてみて、そのうえでさらに何を望むのかを考えてみるとよいのではないか?