直球でない物言いが有効であるのは何故か

うろ覚えだが最近見た記事にこんな言葉があった。「私は”S”が嫌いだ。だがしかしSを含む数多くの単語が嫌いなわけではない。“Parents“という単語が嫌いなのだ。わたしにとっての親はParentだから。ワードの機能がParentという単語にはスペルチェックを表示するが、私にとってはParentsではなくParentなのだ」たしかこんな趣旨の言葉であったと思う。

 両親がいないことの苦しみを表す表現はいくらでもあるだろう。「親子参観には父(母)司会なかった。」「家族写真には親は1人だけしかいない」等いくらでも言い方はある。しかし「片親である」ということを直球に示すわけではない「Parentをみとめない、必ずこの単語の後に着けねばならない“s”が嫌いである」という表現の方がこの文の作者にとって片親であることの苦しみや悲しみといったものが伝わりやすいように思う。

 

 普通の我々にとってParents という単語に“s”がついていることについてここまで注目することはない。ましてやそこに感情を何かしら出すこともない。だからこそ、そんなありふれた単語の中にある「親は複数いるものだ」という考えに反応し、感情をだしてしまう作者は、心のどこかで常に片親であることを意識してしまっているのだということが私たちには分かる、想像してしまう。

 この作者は言葉を尽くそうと思えばどれ程にも長ったらしく話せてしまう「片親であることの苦しみ」を、「Parentsの“s”が嫌いだ」という一言でみんなに理解させた。この作者は普通の人なら得ることの出来ない彼女独特の視点をみんなと共有することでその視点の出どころである「片親であることの苦しみの感情」を共有させたともいえると思う。

 

 優れたスピーチなんかはこういった話者だけが持つ独特な視線を共有させ、聴き手にその視線を持った理由を考察、推察させることで、その理由、根拠となった感情が生まれたストーリーを共有させることができるのだろう。

 確かにこういった者の言い方は有効であるが、直球的な伝え方ではない。だからこそ、こういった類のスピーチなんかを変な形で真似した人がわけのわからない話から始め、結局何が言いたいのかわからないといったことが多々あるように思う。

 そしてそういう人の語る独特な視線を持ったエピソードというのは、たいていが独特でも何でもなく、なんでそんな視点を持ったのかというところに興味すら抱かれない場合が多いように思う。

 優れたスピーチの独特な視点に興味が引かれるのは、ただ突飛なだけでなく、その視点にたどり着くにはおそらく強力な思いや信念というのがないと至れないからではないだろうか?そして、そういった思いや信念があるからこそ、そういう物を持てていない人は、そういった信念ある人に自分を重ね、自分も信念あるように振舞いたいと思うからこそ、より話に引き込まれるのではないか。