内容にかかわらず「好き」なことを持っているのっていいよね

1年位まえ、私は友人に誘われて音楽作成に携わっていた。まぁ特段儲けたわけではないが、友人が主に作成した音楽をどうやって売っていくかという感じの事だったのだが、ぶっちゃけ最終的には苦しくなってやめてしまった。

 やめた理由は別に報酬が入らなかったからではない、その友人と仲たがいしたわけでもない。理由は簡単だ。「無理に楽しいと思い込んでやろうとしていたからである。」

 

 その友人はひたすらに音楽が好きで常に音楽について考えていた。そして私が遊ぶように彼は曲を書いていた。もちろん曲が浮かばず苦しんでいたこともあったが、うまく自分のアイデアが曲に落とし込めず苦しんでいたこともあったが彼は楽しんでいた。そんな彼に付いていけば自分も楽しめると思った。

 だがそんなことはなかった。むしろ楽しんで音楽を作り続け、それ以外の事にも意欲的に取り組んでいる彼と対照的に、無理やり何とか目の前のことを「タスク」としてこなす感じが耐えられなかった。だからやめた。

 

 その際に気付いたことがある。物事を楽しむのは無理である。だからこそ楽しむことの出来るものをなすべきことに「仕事」にすべきであるということだ。

 もちろん簡単なことではない。何年か前に「好きなことで生きていく」というフレーズで数々のyoutuberが生まれたが多くの人は消えた。多くの人が夢を掲げ敗れてきたことは知っている。でも「好きなこと」「好きになれること」は好きだからきつくても頑張れるものだということを僕は知っている。先に挙げた作曲家の友人だけでない。彼と一緒に仕事をしていたところでは、多くの人が好きなことで食べていこうとしている人が、そして成功している人がいた。彼らは好きだからこそ何時間も頑張れていた。それこそ24時間とかいうレベルではなく働いていた。だが彼らは笑顔だった。楽しそうだった。それこそ何時間もゲームをプレーした子供のように疲れてはいたが、それでも楽しんでいた。全力で。

 

 だからこそ僕は好きなことで生きていこうとするのは自分のため以外にも、頑張ることができるからこそ、全力を尽くすことができるからこそ「良い仕事」ができるはずであるという点で、人のためになるのではないかと思う。

 

 だがしかしそう簡単に「好きなこと」というのは見つからない。あなたがもし服が好きなのだとしたらそれは「服が好き」なのですか?それともその服を着ることで周囲から自分に向けられる「賞賛」「視線」が好きなのですか?おそらく即答は出来ないでしょう。私自身音楽、ドラムが好きなのですが、果たして「ドラムが好き」なのかステージに上った時の「歓声」が好きなのかは分からない。もし後者が好きなのであれば私はドラム以外で容易に人の賞賛を集められる方法を見つければ僕はドラムに見向きもしないだろう。そして歓声が得られなくなった時も同じく私はドラムに見向きもしなくなるだろう。

 おそらくこのように「好き」というのはなかなか自覚しにくい。おそらく己の中に目を向け続ければ何かは見つかるのだろうが、案外親や友人、社会の目を気にするとそれは見つかりにくくなる。というより見つけたとしても目を背けようとする。

 このような点で一つ印象的なエピソードを覚えている。とあるエロ漫画家の話だ。彼は20代後半になって絵を描き始めた人らしいがそれでも現在の同人界隈ではなかなか知らない人がいないほど有名な作家だ。彼曰く絵を描き始めたきっかけは興奮するマンガや絵を探す時間が合もったいないと感じたかららしい。じぶんの興奮するものを探し、ひたすらそれを追求してそれをみんなに配っていた。ただそれだけらしい。

 おそらく彼は自分の興奮できるもの、エロいと感じるものを見るのがひたすらに好きなのだろう。ふつうは恥ずかしくてなかなかそれを自覚することも、ましてやそれを表にすることもかなわないだろう。だがしかしそれを彼はした。まぁ汚い話ではあるが彼の「自分のエロいと思ったものを追求する」というはたから聞けばまったくもって成功談につながりそうにない「好き」は多くの人に本を買わせるに至り、人気と金をもたらしたわけだ。

 

 あくまでも彼はそんなことを伝えるために言ったわけではないだろう。だがしかし「自分の好き」が見つからず、「好きなこと」に打ち込むことはすごい力をもたらすということを知った僕には、彼の話が自分にとっての「好き」を見つける際に、あまり世間の目を気にしすぎてはならないという教訓になったように思う。

 

 だからこそ、どんなことであっても自分の心が動いたものには集中しなくてはと思う。そして自分も早く「好き」を見つけたいなと思う。

ある映画を見た次の日の仕事がとてもうまくいった

先日「幸せのちから」という映画を見た。この映画では金銭的にも、夫婦仲的にも幸せとは言えない主人公がある日遭遇したとても幸せそうな男に職とその成功の秘訣を聴くとこから始まる。その幸せそうな男は証券マンであり、彼曰く数学と人に強ければやっていけるというのである。そこで数学の腕には自信のあった主人公はそれを武器に、積極的行動をし、途中彼を襲う多くの不幸(金銭関係や離婚、ホームレスになる等)にも耐え、必死に証券会社の無給かつ厳しい研修に耐え、たった一つの採用枠を勝ち取り、最初に憧れた男のように幸せになることができたという作品であった。

 

 ここからが私の話になるが、この作品を見た翌日私の仕事は異様にはかどった。というのも難しい仕事に直面したときに先に紹介した映画の主人公が努力している姿が脳裏を横切り、あの主人公はあんなに頑張っていたのだから自分もここでへこたれてはいられないなという気持ちが湧いてきたからである。

 確かにこの映像の中の出来事を己の事のように思う感覚は今までにもよく感じたことがある。特に小さいころにはヒーローものなんかを見ると自分も強くありたいと思い変に筋トレを頑張った時もあれば、子供のミュージシャンの出てくる映画を見ると上手に楽器が引きたいと思い必死にドラムを叩いたりしたものである(私は小さいころからドラムをやっている)。

 

 皆さんもこんな経験はないだろうか?しかしこれはよくよく考えるとなかなかにおかしい。特にある程度分別の付く大人になり、あくまでも自分とは異なる映画の中の主人公に己を重ねたからと言ってなぜそこまで何かしらについてのモチベーションが上がるのだろうか。

 

 少々異なる間隔のように思うだろうが、私個人の考えではこの感覚は、テレビでおいしそうに食べられている料理を見てそのご飯が食べたくなるといった感覚、CMの中で楽しそうに遊ばれているゲームやおもちゃを見てそのゲームやおもちゃで遊んでみたいと思う感覚に近いのではないかと思う。この例え話の発生理由はおそらくその料理に対してはそれを食べた人が実際においしそうな反応をするから、そのゲームやおもちゃを遊んだ人が面白いと感じていることが分かるからではないだろうか。もっと要点をまとめるとその料理を食べるとおいしさを感じるという「結果」が、そのおもちゃやゲームを遊ぶと楽しいという「結果」が得られるからなのではないだろうか?

 

 私はこれが、最初に述べた作品の主人公と己を重ねることでモチベーションを上げるという話につながっていると思う。映画に限らず物語は基本的にどこかで主人公は何らかの成功を得ることが多い。もちろん私が先に挙げた映画の主人公は先述の通り幸せを手にする。だからこそ私はその主人公に己を重ねることで、主人公が幸せを手にした様子を見たからこそ、その主人公のように努力すれば幸せという「結果」を得られるのではないかと思えた。だからこそ仕事を頑張れたのではないかと思う

 

 人というのは基本的に自分にとって何かプラスになる結果が得られる確証のある事柄に対してはかなり前向きになれると思う。例えば賭け事なんかが良い例だろう。一度でも買ったという経験があるから、どれだけ負けても次があると信じて次の勝負に出ることができる。

 逆に自分にとってプラスにならないことにはどうしても消極的になる。良い例が勉強にやる気のない子供たちが「数学って何の役に立つの?」と投げかけるといったことであろう。そう、自分にとって役に立たない、良い「結果」をもたらすと確証が持てない物事に対してはやる気をどこか失ってしまう。

 

 確かに物語の主人公に己を重ねてやる気を出すなどということは、物語と現実の分別をつけられない子供っぽいことなのかもしれない。リアリストのような人からすると物語はしょせん物語であり、現実で実践したってそんなにうまくいかないと断じられるかもしれない。

 だがその本質は優れた者から学ぼうとする人間の本能のようなものからくる性質なのではないかと思う。そしてこの物語の中にいるかのような感覚を味わいたいという感情は、アニメ等のコンセプトカフェや、作品の世界観を味わえるようなグッズが売れることを考えると、ある程度の年を取った人からしても共感のしやすいものではないのだろうか?また例え物語の主人公から学んだところで物語の中のようにドラマチックなほどの成功を手にすることができなかったとしても、その日一日の仕事や大変なことを、主人公気分を味わうことの出来る楽しいものとして楽しく取り組むことができ、かつ効率をアップさせることができるというのならそれに越したことはないのではないだろうか。

 

 皆さん。もしなにかモチベーションが上がらないなんてことがあったら、少し小説や映画、音楽などの物語を楽しんでみませんか?案外自分の背中を押してくれる作品が見つかるかもしれませんよ

すきなモノ、夢中になれるものを探したい

先日何もする気が起きなくなった。Youtubeを見ていても次に見ようとする動画は決まれどもそれがめちゃくちゃ見たい!内容が気になる!といったワクワクは生じない。面白いと言われているスマホゲームをやってみても勧めようとはするが、どこか楽しくない、漠然とした物足りなさを感じていた。その時、成功こそしていないが音楽で食べていこうとしている友人と話をした。その友人は確かに娯楽をする金銭余裕が全くない状況だが音楽を作るのが楽しくて仕方が内容だし、(褒められた話ではないが)バイト中どんな音楽を作ろうか考えているだけで楽しいのだという。

 なんでそんなに音楽に没頭できるのか?そして彼にとっての音楽に相当するものが自分の中には果たしてあるのだろうか?と言うことを考え、その友人と話した内容をここに書こうと思う。

 

 あなたの好きなことは何ですか?と問うとたいていの人は何かしらの反応があるだろう。好きなことが見当たらない人というのはなかなかいないと思う。だが、ここで、「そのあなたの好きなもののことをあなたはずっと考えていますか?」とさらに問うと答えに詰まる人は多いと思います。

 

 ホームレスから有名実業家にまで上り詰めたクリス・ガードナーさんへの取材が行われている本を読むとそこには、電車の中を見回すと定職を持って幸せなはずの人たちはどこか幸せでないかのように目の輝きを失わせているのにもかかわらず、何故クリスさんがホームレスの時はそれよりも張りのある生活を送れていたのかという質問に対し、彼は

「大好きなこと、どうしてもやりたいことを見つけるのが、成功の秘訣です。そうすれば、ああまた1日それができるのだと太陽が昇るのが待ち遠しくなる」 との回答がありました。

 

 このことから「あなたが好きだと思っているものは、あなたが一日中楽しく考えてやまないものですか?」という最初にした問いかけの重要性が分かるであろう。そう、本当の意味で楽しい、夢中になれるものというのは一日を素晴らしいものにしてくれる。それどころか人生を豊かにしてくれるものであると考えることができるであろう。

 だがしかし最初に言ったようにこの様な本当に好きなものというのは見つからない人がやはり多いであろう。ではどのように見つけていけばよいのだろうか?

 

 これに関しては正直まだ明確な答えを私自身見つけられていない。(実際自分が満足のいくものは題名通りいまだ見つかっていない)しかし実際にそういった類の好きなものを持っている人たちと話しているとなんとなく推測することは出来る。

 「おそらく見つけるために大切なのは「喪失感」や「飢え」なのではないだろうか?」と私は思う。これはどういうことかというと、自分が本当に心躍るものという物は人間どこかで無意識に求めるものである。それが先に挙げた「飢え」やどうしても夢中になれるものがないという「喪失感」です。これをではどのようにすればよいかというところですが、これに対しての答えは、その「飢え」の正体を正確につかむということです。

 少し例を挙げて考えてみましょう。あなたの体はたんぱく質が足りていないとします。すると体はそれを認識して体にそのたんぱく質不足(飢え)を補うよう命令を出しますが当然体はそんなもの感じ取れるわけありません。せいぜい何か食べたいと漠然に思うのが関の山でしょう。こうなった時、単なる「飢え」を満たそうとして米など炭水化物ばかり取っていても当然たんぱく質不足が解消されるわけはないので(確かに米には多少のたんぱく質が含まれてはいるが大した量ではない)その上は満たされることなく、米の消化という処理すべき対象がなくなればおそらくまた漠然とした満たされなさを感じるでしょう。その時に、「あんなに食べたのにお腹がすいているのは気のせいだ」と無理やり納得するのではなく、何が食べたかったのかというのを分析していろんな食事に手を出してみましょう。おそらく不足している栄養素のある物をとると体がその上は満たされたとして「おいしさ」のような報酬をその不足を補った対価として与えてくれるでしょう。

 このことを話の本題に戻して考えると、どこか満足できない精神的な「飢え」を満たすにはただその「飢え」を紛らわさせるような行為、先ほどの例えで言えば米を食べる、のような行為を行った後、本当に体が満足できているのか、本当に心が躍ったのか?ということを自分自身に問いかけてみましょう。本当に満足できたのならば充足感のような精神的な満足が、そうでなければ何となく漠然とした虚しさがあるでしょう。虚しさとまでいかなくても対して心が躍らなかった。明日もした、といった感情が湧かないのならそれはあなたにとって飢えを満たしてくれるものではないのでしょう。

 

 このようにして何となく心躍る、満足のいくものを手にしたとしてもそれだけで満足してはいけません。もっと深堀をする必要があると思います。先ほどの例に戻りましょう。体がたんぱく質不足であれば当然肉を食べれば満足するでしょう。しかし、そこであなたが「なぜ飢えていたのか」ということを深堀せず、「あぁ肉が食べたかったんだな」というので終わるとおそらく次に来る他の栄養不足からくる上には対応できないでしょうし、体はもっと複雑に、たんぱく質は欲しいけどこれ以上油は欲しくないといった要求を出してくるものです。それに対応できない。それに対応するには、今日食べた肉にはどのような栄養素が入っているか?そして対木に飢えが来た時に同じように食べても満たされないなら、前回食べた肉よりこの栄養多い別のものを食べようなどとして調節してやることで、より自分の「飢え」への理解が進み、この様な「飢え」方をしているときにはこのようなものを摂取すればよいということが分かってくる。

 

 このように、その心が躍った行動のどの部分に心が特に踊ったのか(なんで飢えが満たされたのか)という部分に注目する必要があります。そうしておかないと同じ行為を繰り返していった結果最初は心を躍らせていたものが面白くなくなってくるということが発生した時に、その対処ができなくなってしまう。また一から何か心躍るものを探す必要が出てくるといった非常に無駄なことが発生してしまいます。

 

 このように書くと非常に簡単なことに思えますが、実際に飢えと戦うのは大変で、逃げたくなることも多いです。実際、例えの話で言うと、なんとなく満たされることは、この世に五万とあります。また、その飢えているという感覚そのものを麻痺させてしまうようなもの(酒など)がたくさんあります。ですが、今井落ち度後のより大きな幸せのために自分自身の「飢え」と向き合ってみませんか?この特に一人きりで自分に向かい合いやすい自粛下の中で。